ジャイアント馬場 新潟県 三条市生まれ 本名 馬場正平さん 身長203cm
少年時代は野球に熱中、小学4~5年生の頃には、すでに身長175cmに。
中学時代も野球部に所属。ファースト を守り、中越地区大会で優勝。
中学3年のクリスマスには キリスト教の洗礼を受けた。
高校に入学した頃には身長190cmに。はじめは 美術部に入部した。
当初から野球部に入らなかったのは、大きい足に合うスパイクがなかった為...。
当時の野球部監督が馬場のための スパイクを用意し、野球部に入部。
( 監督が贈ったとされるスパイクは、実は馬場さんの母が密かに用意したものだと... )
昭和29年、2年生でエースで4番として出場した夏の高校野球県予選で
1回戦で敗退するも 「 新潟に豪腕投手あり 」 と注目される。
昭和30年、巨人軍にスカウトされ、16歳で 巨人 に入団。背番号は 『 59』。
新潟県で初めてのプロ野球選手となる。入団当時の身長193cm体重90kgだった。
入団した年の春、明石キャンプで、後に夫人となる元子さんと 出会う。
元子さんは、後援者の娘で、この時、馬場のために特大のスリッパを用意していた。
この スリッパのお礼で 始まった手紙のやり取りは、その後5 年間続く。
元子夫人とは、昭和46年9月にハワイのカハラ・ヒルトンで挙式。
( マスコミには昭和57年になってやっと発表 )
一軍初登板は昭和32年、甲子園の 阪神タイガース戦。
同年10月23日には 後楽園球場で初先発。
巨人入団3年目の秋、脳腫瘍 と 診断される。
東大病院で99%助からないだろうといわれた開頭手術が奇跡的に成功。
5日後には抜糸、1週間後には退院するという超人的な回復をみせた。
巨人に在籍した 5年間における一軍での公式通算成績として、登板3試合、
7 イニングを 投げて自責点 1、奪三振 3、防御率1,29 という数字が残されている。
昭和34年のシーズンオフに巨人軍から契約解除を言い渡され、大洋ホエールズへ入団。
翌年の大洋のキャンプ中に、風呂場で左手に大ケガを負い、プロ野球の道を断念する。
その年(昭和35年)の4月、日本プロレスセンター を訪ねた 馬場さんは
力道山 に ヒンズー・スクワット をやらされ、その場で日本プロレスへの入門が決まる。
プロレスラーとしてのデビューは、同じく昭和35年9月30日、東京・台東体育館での
田中米太郎との 15分1本勝負。5分15秒、股 裂き で勝利し、デビューを飾る。
デビュー後は8連勝して、芳の里 に首固め で初黒星。
昭和36年、東京体育館で初めて外人レスラー、ミスターXと対戦し、逆エビ固め で敗れる。
同年5月には富山市体育館で 猪木と初の対決。10分0秒、羽交い絞め でギブアップ勝ち。
( 以後、馬場さん と 猪木さん の " B I 対決 " は、馬場さんの16勝0敗 )
昭和36年7月には、初のアメリカ武者修行に出発。
アメリカ・マットでのデビューは、昭和36年8月、サンディエゴでのアート・ハマック戦。
その後、ニューヨークで、師匠となるフレッド・アトキンス と出会い、マンツーマンで指導を受ける。
昭和37年7月に、スカル・マーフィーと組んだ試合で16文キックが偶然生まれた。

実際には馬場さんの足のサイズは16文( 38.4cm )ではなく...
アメリカの靴のサイズの16 (32cm )だったのが、日本の記者が16文と間違えて名付ける。
昭和38年には、力道山 とともに凱旋帰国し、大歓迎で迎えられる。
「ジャイアント馬場」という名前で呼ばれるようになったのは、この1回目の海外修行後。
後継者を育てたかった 力道山により、同じ年の10月に再度アメリカ修行に向かわされる。
同じく38年12月15日、力道山の訃報を、馬場さんは修行先で聞かされる。
( 馬場さんは昭和39年に三度目の渡米、ジャイアント馬場の強さはこの海外修行で培われた)
昭和40年11月、大阪府立体育館でディック・ザ・ブルーザーと60分3本勝負を戦い、
第3代インターナショナル・ヘビー級選手権王者に。
昭和47年7月、日本プロレスからの独立を表明。
独立の背景には、日本プロレスが日本テレビとの契約を破り、NETテレビ(現:テレビ朝日)で
馬場さんの試合を放映するという、放送権をめぐるトラブルがあり...
契約を破られた日本テレビは18年間続いた日本プロレスの放映を打ち切り、これをきっかけに
日本テレビに恩義を感じていた馬場さんが日本プロレスからの独立を決意する。
同年9月18日、全日本プロレス設立を発表。
参加 レスラーは 大熊元司、百田光雄、サンダー杉山、 ドリー・ファンク、 テリー・ファンク、
ブルーノ・サンマルチノ、 フレッド・ブラッシー など...。
10月には日大講堂で全日本プロレス旗揚げ戦を開催。
昭和48年2月、力道山ベルト争奪戦で優勝し、初代PWF世界ヘビー級王者に。
( 以後、昭和53年6月まで 38回連続防衛を記録)
昭和49年12月、NWA世界王者のJ・ブリスコを下して、日本人初の第49代チャンピオンに
昭和54年、日本武道館で行われた「夢のオールスター戦 」で、アントニオ猪木と8年ぶりに
ダッグを組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と時間無制限1本勝負で
対戦し、馬場組が勝利する。
同54年には5年ぶりに NWA世界王者を奪い、第55代王者の座を獲得。
昭和55年、東京・後楽園ホールにおけるタッグマッチでデビュー以来
連続 3000試合出場記録達成。
( 昭和59年、首の負傷の為、連続試合出場の記録が3764でストップ)
昭和57年には、ラジャ・ライオンを相手に初の異種格闘技を行い、 裏十字固め で勝つ。
平成元年11月、札幌の世界最強タッグ決定リーグ戦で 天龍 と戦い、
対日本人戦では 初のフォール負け を 喫する。
平成2年11月、世界最強タッグ決定リーグ戦で場外に転落、
左大腿骨亀裂骨折の重傷で入院。 長期欠場に... 。
平成3年6月、日本武道館で183日ぶりにカムバック。フォール勝ちで復活をアピールした。
平成5年には国内5000試合出場を達成。
平成6年3月、三沢光晴に 初のフォール負け。
平成10年1月23日には 還暦記念試合を 開催。
16文キック と並び、馬場さんの 必殺技と知られるのがヤシの実割り。
力道山のような水平チョップに加え、馬場さんは大きな手の平を使ってのチョップも得意とした。
昭和40年頃からは ジャンプして相手の脳天をチョップする 脳天唐竹割り も使い始める。
日本プロレス時代の馬場さんの最大の必殺技は 32文ドロップキック。
全日本プロレス旗揚げ当時の最大の得意技は、ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ。
( 通算3度にわたってNWA世界ヘビー級選手権を勝ち取った時のフィニッシュは...
すべて ジャンピング(ランニング?)・ネックブリーカー・ドロップであった)
大の甘党であった馬場さんが、「ニュースステーション」で 死ぬ間際に食べたいものとして
あげたものは、豆大福 キャピタル東急のフレッシュメ ロンジュースも大好物だったよう...
『 007 』シリーズの第10作目 『 私を 愛したスパイ 』 への出演依頼を 受けたが、
スケジュールの都合で実現せず...、打診のあった役柄は、
ジェームス・ボンドと 対決する「 鋼鉄男ジョーズ」 、
代わりに選ばれたのが リチャード・ギアさんだった。
昭和57年大晦日には、民放の「 ゆく年 くる年」の総合司会も 務められている。
平成10年12月、日本武道館で ラッシャー木村、百田光雄と組み、フォール勝ち。
これが、国内通算5758試合目、海外の試合を含めると約8000試合を 数える
ジャイアント馬場 さんの 生涯最後の試合となる...。
この2日後、東京医科大学病院に入院、平成11年1月8日に癒着性腸閉塞の手術を行う。
同年1月31日午後4時4分、転移性肝ガンによる肝不全で61歳の生涯を閉じる。
戒名は「 顕峰院法正日剛大居士 (けんほういんほうしょうにちごうだいごじ)」。
「 顕峰 」とは、その道で偉大だったことを表している。
( モノマガジン "薀蓄の箪笥" より )
本日(7月30日)は、
プ ロ レ ス の日
1953(昭和28)年のこの日、力道山 が中心となり日本プロレス協会 が結成された日。
先 んずれば 人を 制す
( 日めくり カ レンダーより )
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